EOS津野
電子光学講座
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真空中の電子には電荷があります。普通の電子の電荷は負です。しかし、正の電荷を持つ電子もあり、陽電子と呼ばれ ています。陽電子は普通の電子と出会うと対消滅と言ってγ線を出してどちらの電子もなくなってしまいます。電子が 持つもう一つの性質としてスピンがあります。スピンと言うのは磁石の性質を示す元で、もともと電子が持っています。 ただ、スピンの性質を利用したものは永久磁石とか磁性材料とか、全ては物質中の電子に関するものでした。真空中の 電子の振る舞いを扱う電子光学でスピンが関係してくるのは、もちろん物質中の電子の磁性を調べるためのプローブ としての役割を期待されてのことです。

方向のそろった真空中の電子のスピンを磁性体試料にぶつけた時に反射電子として出てくる電子の量が物質中の スピンの向きによって異なることを利用したSpLEEM(スピン偏極低加速電子顕微鏡)と言う装置があります。この装置 では、試料に当てる電子の向きを自由に設定したい要求があります。このため、真空中のスピンの方向がそろった 電子ビームのスピンの向きを回転することが要求されます。この時、電子の進む方向からこれと直角方向へのスピン回転 を行う装置はSpin manipuratorと呼ばれ、ビームの進む方向と垂直な面内でスピンを回転させる装置はSpin Rotator と呼ばれました。 この他に、普通の電子ビームを試料に当てた時、磁性体試料の磁区に応じて出てくる二次電子のスピン方向に偏り が出ます。これをモット検出器などのスピン検出器で検出して磁区構造を表示するSpinSEMと言う装置があります。 ここでも検出器に入れる電子のスピンの向きを回転して検出効率を高める必要があります。

このようにスピン回転器はその用途は限られていますが、スピントロニクスの発展と共に、ナノ領域の磁区構造の 観察が必要となり、その時にはスピンの観察が必要となり、その補助的な装置としてスピンローテーター、スピン マニピュレーターの需要も出てくるものと考えられます。EOS津野ではこれまでに数台のスピン回転器の設計、 製作を手掛けて来ました。その中から本質的な部分を拾い出してスピン回転器の概要をご説明します。

スピンマニピュレータ・ローテーター


スピン回転器の製作はスピン偏極PEEM装置用としてDudenとBauerによる設計に始まります(T. Duden, E. Bauer, Rev. Sci. Instrum. 66 (1995)2861-2864) 。スピンの回転は、 光軸方向を向いたスピンをこれと垂直な面内に倒すための回転(これを行う装置はSpin Manipulatorと呼ば れます)と、光軸と垂直な面内での回転(この装置はSpin Rotatorです)の二つの方向に 分けて考える必要があり、前者についてDudenらは電磁石のギャップの中に曲面電極を挿入した図1に示すよう な電場・磁場重畳型(ExB)90°偏向器を用い、後者の回転には磁場型電子レンズを用いました。図1はDudenの 設計をまねて製作したもので、名古屋大学のスピン偏極電子銃を搭載した透過型電子顕微鏡に搭載されてい ます。後者の面内のスピン回転は磁場レンズ内では像が回転することを利用したもので、普通の磁場レンズ を用いればよいのですが、レンズ作用を伴わないようにその磁場ギャップ内でフォーカスするよう、Duden の装置では前後に静電レンズが備わっており、フォーカス条件の調整が行われました。

その他に、SpinSEM装置のためのスピン回転装置として孝橋によってWienフィルタを用いたスピン回転器が 開発されました(孝橋照生、小池和幸、日本応用磁気学会誌28(2004)193-199) 。図2は大阪電気通信大学の ために孝橋が設計した途中のものですが、上下方向に磁場が 水平方向に電場が掛るようになっています。図1の90°偏向方式と図2のウィーンフィルタ方式が光軸を含む 面内のスピン回転の二つの方式になります。光軸に垂直な面内でのスピン回転器は図3に示すような二段の 磁場レンズで行うことが出来ます。一段目は3磁極レンズでこれは像無回転レンズを構成します。このレン ズで次の像回転レンズのギャップ中心にビームをフォーカスしています。ビームのシミュレーションでは スピンの回転は見れませんので、像についてだけ見ていますが、像回転角は即ちスピン回転角ですからシ ミュレーションではビームの回転だけを表示しています。このように全立体角にわたってスピン回転を行 わせるには二つの装置が必要になっていたのですが、大阪電気通信大の安江らはWienフィルタを多極子で 作った場合には、電場と磁場の向きを回転させることが出来るので、両者を一つの装置に纏めることに成 功しました(T. Yasue, M. Suzuki, K. Tsuno, S. Goto, Y. Arai and T. Koshikawa, Development of Novel Three-Dimensional Spin Manipulator, ALC13(2013))。以下では、90°偏向型、ウィーン型、磁 場レンズ型と説明した後、多極子Wien型による3D変換について簡単に述べることにします。

1. 90°偏向型スピン回転器

図4は図1に示したExBスピン回転器で電場だけでビームを90°偏向した場合と磁場だけで偏向した場合の スピンの回転、非回転の様子を示しています。このタイプの装置ではビーム自身は必ず90°偏向させる 必要があるため、スピンを回転させる必要がない場合には電場で偏向し、スピンの回転が必要な場合に 磁場で偏向させることになります。

このように原理は簡単なのですが、装置としては多くの問題点を抱えています。 最初の問題は、ExBを実現するには、電磁石のギャップの間に電極を入れなければならないことです。これは、 ウィーンフィルタでは必ず起こる問題なのですが、ウィーンフィルタの場合は光軸が直線であることと、多極 子と言う方法によって解決されています。しかしながら、90°偏向を行いながらExBわ行う装置はその例が少 ないこともあって研究が進んでいませんでした。

最初Dudenの論文を見た時に、この人は磁場型のエネルギーアナライザで一般的に用いられているセクター磁 石のことを知らないのかと思いました。セクター磁石と言うのは扇形をした電磁石で質量分析装置をはじめ、 電子顕微鏡のエネルギー分析装置などに広く用いられてきました。

図5は三重大学に納入されたスピン回転器の断面です(S. Nagai, H. Sakakibara, K. Hata, M. Okada, H. Mimura, Measurement of z-direction component of electron spins feld-emitted from a single-crystal magnetite whisker, Ultramicroscopy 111 (2011) 405-408)。図1の円の1/4の部分を 切り出した部分が使われてい ます。図6は電磁石のポールピースの片側とその上に乗った二枚の電極を示してています。図5が断面で、 電場の等高線が合わせて描かれてい ます。このようなセクター型の電磁石を用いるのが当然だとこの時は思っていました。しかし、実際に作っ てみますと、まず気が付いたことは磁場の均一性が取れないと言うことです。電磁石の磁場を均一に作るた めには、ポールピースの直径はギャップの3.5倍程度は取るべきだと言うことが分かっていました。電磁石の ギャップ中に電極を入れなければならないExB型ではギャップを大きくとらなければならないため、セクタ ー磁石では磁極面の大きさをギャップの3.5倍に取ることが出来ません。電場の一様性を確保しようとすれば、 電磁石のギャップが大きくなりますが、磁極面の大きさは回転半径で決まってしまいます。 磁場の回転半径を大きくすれば電場のそ れも大きくとらなければならず、結局電極間距離が長くなり、電場の一様性確保のために電極の高さを増や さなければならず、そればまた磁場ギャップの上昇を必要とするといういたちごっこになります。これを解 決してくれる方法が、実は図1に示した丸いポールピースを持つ電磁石だったのです。

図1に示したような電磁石を使った場合、90°偏向するビームは、図4からわかりますようにそのポールピ ースの1/4の面しか使いません。そのため、電磁石の1/4だけを切り出して使用するセクター磁石が一般的 になったわけですが、ExB装置の場合は、磁場均一性を確保するために丸いポールピースを必要としていた のでした。

もう一つ起きた問題点は、磁場だけでビームを通した場合に電極の壁にビームがぶつかってしまうことで した。電場だけでビームを通した場合はそのような問題は起きませんでしたので、これは電場と磁場で回 転半径が違ってしまっていたという問題になります。ビームの入口と出口は同じ位置ですから、半径の違 う円が同じ90°の直線に平行に接触するには回転中心をずらさなければなりません。これは、フリンジ場 の分布が異なるために起こったことだと思われます。これらの問題は図1のような円形の電磁石ポールピ ースを用いた名古屋大向け装置では起こりませんでしたので、Dudenの論文は正しかったことになります 。Dudenがなぜ円形のポールピースを用いたのかは分かりません。上に述べた事柄をやはり経験していたのであ れば、論文にそのことが少しは触れられていても良かったように思います。しかし、他人の論文を読んだ 時、その論文を書いた人が自分より知識が不足しているに違いないと決めつけて重要な点を無視してはい けないと言うのが一つの教訓でした。

2. 円筒形ポールピースを備えた90°偏向ビームセパレータ

このように、ビームを90°偏向させる電磁石は分析装置に使われる場合のようにポールピースのギャッ プがビーム偏向の回転半径に対して十分小さい場合にはポールピース形状を円筒形ではなく、ビームの 通り道に当たる部分である1/4の領域だけのセクター磁石を使うことが出来ますが、スピン回転器の場 合のように電磁石のギャップに電極が挿入されるため大きなギャップが必要となる場合は、ビーム通路 として使われない部分も含めた円筒形のポールピースを使って磁場分布の一様性を確保する必要がある と考えられます。つまり、Dudenの論文はセクター磁石の知識がなかったため円筒ポールピースを使った のではなく、セクター磁石を使ったのでは性能を出せなたために円筒ポールピースを使っていた可能性 があります。

図1は、円筒形電磁石を用いた場合のスピン回転器の外観です。図6は、電磁石と電極の上半分を取り 払って内部が見えるようにした図です。又、電場のみ、磁場のみでビームを90°偏向させた場合の電子 の軌道と、その時のスピンの向きは図4にすでに示してあります。電磁石ポールピースの1/4の領域しか 利用していないので無駄な設計のように見えますが、これが必要な処置だったことが分かります。

電極の形状は、図7のようなもので、半球フィルタの一部を切断して切り出した形状で級の一部を構成 しています。つまり、磁場に関しては一様磁場を用いていますので、180°の偏向でX方向(磁場と垂直 な電場方向)のみに収束するレンズ条件を持ち、電場は球面電極を用いていますから180°でX, Y(磁場 方向)両方向に収束する条件となります。このように、90°偏向型スピン回転器はスピンの回転角によ って、ビームの収束条件が違ってくると言う大きな欠点を持っています。磁極端面に傾斜を付けたり 、ポールピース面に角度を持たせてX, Y両方向にフォーカスさせる条件を選ぶことも出来ますが、そ の場合には180°ではフォーカスせず、もっと大きな角度になりますので、依然として電場と同じ条 件でフォーカスさせることは出来ません。電場と磁場について偏向角と一方向フォーカスの場合と、 二方向フォーカスの関係を示しました。このようにExBの偏向場を使うことによって任意の角度に スピンを回転できるとはいっても、そのレンズ作用を一定に保つことは出来ず、回転角度によって 非点成分が大きく変化せざるを得ないことが分かります。従って、大きな非点をスピン回転角を 変化させるたびに補正しながら使う必要があることになります。

3. ウィーンフィルタ型スピン回転器

ウィーンフィルタ型のスピン回転器の断面は図2に示した通りです。ウィーンフィルタではビーム が直進しますので、90°偏向型のようにスピンを回転させない時でも90°偏向が必要といった制約 条件がありません。しかし、逆にビームを常に直進させておく必要があります。ビーム直進のための ウィーン条件(E=vB)を常に満たすため、常に電場と磁場の強度比を一定に保たな ければなりません。つまり、スピンの回転角度は磁場の強さに比例しますので、スピンの回転角度 を磁場で決めて、その磁場の値に対応する電場を常に与える必要があります。と言うことは、スピ ンの回転角によってレンズ条件が変わると言うことになります。これは一般的には厄介なことです 。レンズとしてウィーンフィルタがあまり働かないように、フィルタの中心でフォーカスする ようなビームを入れてやります。つまり、図8に示したように、前後の静電レンズを使って、フィ ルタの中心にビームをフォーカスさせます。

このような条件にしますと、ウィーンフィルタの電場・磁場の値を変えてもレンズ条件はそれほど 変化しません。全く変化しないとはいきませんが、実用上不便がない程度には小さくできると言う ことです。ウィーンフィルタ方式を使うと、ビームを直進させることが出来る他に、非点を発生さ せないで済むと言う大きな利点があります。電場・磁場は両方ウィーン条件に従って上げ下げさせ るだけで、その時に発生する非点はあらかじめ除いておくことが出来ます。スピン回転角によって その条件が必然的に変わると言うわけではありません。この点で、ウィーンフィルタ型スピン回転 器は電子顕微鏡として使う場合の装置に適したスピン回転器であると言うことが出来ます。

4. ウィーンフィルタ型3次元スピン回転器

スピンを電子の進む光軸と垂直な面内で回転させる方法としては図3に示したように磁場レンズに よる像回転を利用するのが一般的でした。しかしながらこの方法は少なくとも二段の電子レンズを 必要とし、これと上で述べた回転器を合わせると、スピンを回転させると言うそれだけの目的に対 して必要な設備が多くなりすぎます。大阪電気通信大学の安江先生は多極子ウィーンフィルタがそ の構造から全ての極が電場発生、あるいは磁場発生に利用されており、電場の方向あるいは磁場の 方向は主たる電圧あるいは主たる電流を与える極の方向に決まることに着目し、各極の電圧・電流 を回転させることによって、電極として働く極と磁極として働く極を回転できることに着目し、ス ピンの向きを光軸方向からこれと垂直な方向へ倒してやる向きを変えてやる、つまり軸に垂直な面 内でスピンを回転させる、ことが出来る用になりました。

図9は多極子として12極子を用いた場合の電極先端形状と、電場を与える方向を水平方向から20° 回転した場合のギャップ中の電場の等高線図です。各電極に与える電圧は、次の式で表わすこと が出来ます。
V(n)=Vo*Cos(θ + α)
nは図9に番号付けしてある極の番号です。各極の電圧V(n)は、水平方向の場合の電圧Voに対し て各極の水平からの角度θと回転角αの和のコサインで与えられます。これらの値を0°の場合と 20°の場合で比較して示したのが表Iです。このように、多極子ウィーンフィルタを使えばスピン を軸方向からそれと垂直方向に倒すときの向きを自由に設定することが出来、図3に示したような 面内回転のためのレンズを省略することが出来ます。しかしながら、多極子を使うため、極の数( あるいはその半分)だけの電圧源と、電流源を備える必要があることから、多数の電源がレンズよ りもたくさんの場所を取ってしまうと言う問題が起こります。ただ、多極子の極数は、図9では12 極子を使いましたが、8極子を用いても十分満足すべき結果が得られることは確かめられています。
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目次(全体)

0.最初のページ
1.レンズの光学(FromTheGodHand)
2.透過電子顕微鏡(TEM)の電子レンズ
3.
走査電子顕微鏡(SEM)レンズ
4.
光電子顕微鏡(PEEM)電子レンズ
5.収差補正
6.偏向と非点補正
7.エネルギー・アナライザ
8. Wien Filter
9. スピン回転器
10.著者のページ


著者のページ

作成日 2017/08/15 2018/11/19

目次
9. その他のプロジェクト 
9.1.プリズムアレイビームセパレータ
9.2. 空間電荷考慮の軌道
9.3. スピンマニピュレータ・回転器(ここ)
9.4. Voltex
図1. 90°偏向型スピン回転器。
図2.Wienフィルタ型スピン回転器。
図3. 光軸に垂直な面内の像回転レンズ。
図4. 90°偏向型のExB偏向器の電場のみ(左)、磁場のみ(右)によるスピンの回転。
図5. セクター型電磁石のギャップ中に球面を切断した電極対を挿入したスピン回転器。
図6.セクター型電磁石のギャップ中に球面を切断した電極対を挿入したスピン回転器の断面。
図7. 図1に示した円筒ポールピース型90°偏向スピン回転器の断面図。
図8. 90°偏向型スピン回転器の電極構造。
図9. 電場と磁場のそれぞれによる一方向と二方向フォーカスに必要な電極又は磁極の角度。
図10. ウィーンフィルタ型スピン回転器における電子軌道。
図11. 12極ウィーンフィルタの先端部と、電場をX方向から20°回転させて与えた場合の電場等高線。
表1. 回転なし(0°)と20°回転の場合の各極に与える電圧。