EOS津野
電子光学講座

コンタクト tsuno6@hotmail.com
今では当たり前になったコンピューターシミュレーションの導入時について お話しします。1970年代から有限要素法が盛んに用いられるようになり、まずは、 構造計算に用いられました。その手法を電磁界計算、特に電子顕微鏡のレンズ設計 に応用したのが、イギリスはケンブリッジ大学のドクターコースの学生だった Dr.Munroでした。彼のこのソフトはケンブリッジ大学図書館より無償で配布されて おり、それを理研で手に入れたものを当時ここに出入りしていたGさんがコピー させてもらったのが、私が勤めていたJ社でソフトを入手した方法でした。
Munro博士は、卒業後ロンドンのインペリアルカレッジに就職し、1984年ころは、 アメリカのオレゴン大学に留学していました。帰ってからしばらくして、お弟子 さんだったRouseさんと一緒に会社を立ち上げソフトの種類も増やして、ソフト の製作と販売に専念することになりました。ここでは、このMunroソフト導入時 のまだ大型コンピューターで苦労しなければならなかった頃のお話をしたいと 思います。どんなソフトであったのかも記したいと思います。

神の手から人の手に
--電子レンズ設計へのコンピューターソフト導入物語 --


私はJ社にその会社で販売しておりました電磁石を使った装置の材料として使われる 電磁石材料をそれぞれの製品が必要としている品質に維持するという役割で入社 いたしました。当時、この会社では、電子顕微鏡が最もメインの製品で、次いで NMR, MASS、工業用電子ビームや高周波応用機器などを生産、販売しておりました 。電磁石は電子顕微鏡用のレンズ、NMRやMASSのための磁場提供のものが 主な製品でした。その中でも、NMRは均一磁場の均一度が、10e-8とも10e-9とも 言われ、使用磁場が2万ガウス程度でしたので、その均一性のすさまじい要求を 満たすのが大変困難と言われるレベルでした。材料となる純鉄やパーメンダーと 呼ばれる鉄とコバルトが半々の合金が飽和磁束密度が最も高い物質で2.35Tesla あるため、100MHzのNMR用として使われていました。

一方、電子顕微鏡の電子レンズとしては、純鉄と違って、パーメンダーは 結晶磁気異方性もゼロ近くのため、結晶粒のサイズが大きくても、純鉄ほど深刻 な非点や軸の狂いなどの原因とはならない利点がありましたが、石のようにかたい 金属で、加工が困難でした。こうした事情にあったのですが、超電導マグネットを NMR装置に使おうといううねりが迫っていました。 今では、ほとんどの大きな病院にある脳の検査用のMRIは超電導マグネットを 利用したNMRなのですが、理化学用NMRでも、超電導マグネットへの置き換えが 進んでいました。この時、私は、一大決心をしてヘリウムやステンレスなどより、 自分は鉄が好きだからという理由で、電子顕微鏡専属に移らせてもらいました。

すでに入社以来何年か経過しており、私と一緒に入社した人たちは電子顕微鏡で 原子の像などを観察するのにも慣れていましたが、当時私にはできませんでした。 そこで私に与えられたテーマは、永久磁石レンズと超電導レンズの開発でした。 せっかく超電導磁石から逃れて電子顕微鏡部門に移してもらったのですが、結局、 与えられたテーマには超電導レンズが含まれていました。しかし、このテーマ についてはいきなり始めることもできず、とりあえずは永久磁石レンズから始め ておりました。H社などでは永久磁石レンズの開発に成功し、担当した人は テクネクス工房と言う永久磁石レンズを使った走査電子顕微鏡の会社を作って、 今も販売を続けていますが、私の方は一個投影レンズを作っただけで、永久磁石 よりもその3磁極構造が作るS字歪収差のない投影レンズの方に関心が移って しまって、同じものを電磁石で作り直したりなどして、永久磁石レンズの方は おろそかになってしまいました。

ところが、そうこうしているうちに、UHPと呼ばれる高分解能の電子レンズに 問題が発生していました。それは、一台だけ作られてOxford大学のメタラジー Professor Hirschの研究室に納入されておりました。ここは、Cambridgeマフィア と呼ばれる電子顕微鏡のCambridge, Oxford大学 出身者の情報伝達組織で、その 団結力はすさまじく、ニュースはあっという間に世界に広まります。そこで、 沢山の受注の山を抱えたわけですが、軸と非点の不良で一台も作れなくなって しまったのです。何とか出荷しても不良品としてクレームが来ていました。 このような、試作一号機だけ成功して後が続かないのはよくあることですが、 その原因が材料にあるのではないかと疑われ、そのために私が担当者 になったというわけです。材料が特に悪いわけではないということはすぐに わかったのですが、担当者返上と言うわけにもいかず、私は加工上に 問題点かないかどうかを調べるために、毎日旋盤工場の見学に訪れました。 私は現場主義と言いますか、加工法に問題があるのではないかと考えれば、 その加工場所で日がな一日を過ごす現場主義の教育を受けていましたので、 それからは生産現場に行って毎日を過ごしておりましたが、あるときドリルの 刃が曲がって進んでいくのではないかと思いついたわけです。色々な観察 装置を備えた会社でしたから、その考えはすぐに確認され、ドリルの刃が 曲がって進んでいたということが確認されたわけです。


この時、私は穴の直径を大きくすることで、ドリルの歯が曲がってしまう ことによる、軸不良と非点収差の発生を防いだのでした。もう一つの選択肢 として、当時はやってきた、電界加工や、放電加工によって、無歪で、穴を 明けるという選択もあったわけで、実際、私の後で担当者になった人は無歪加工 を取り入れることでさらに性能アップをはかりました。

穴径を1mmにしたところ、一台の不良も出ず、軸と非点は全品、合格しました。 そこでおしまいならばそれはそれでよかったのですが、当然のことながら 穴径を小さくすることによって性能アップを図っていたわけですから、性能は 悪くなりました。上司からは、カタログ性能を落とすわけにはいかないので、 それを考えるようにと言われました。当然のことではありましたが、ここで 私の有限要素法と収差計算による高分解能電子レンズ設計への道が開かれた のです。当時、Dr. Munroの電子レンズの計算計算ソフトは社内に導入されて いましたが、まだ誰も使っていませんでした。社内のコンピューターは、それが 使えるほどの性能を持っていなかったのです。

電子顕微鏡のレンズ設計と言う仕事は、順調に入社を果たして、電子顕微鏡 の技術部門に配属され、原子像の観察などの訓練を受けた人だけが担当できる 仕事でしたが、こうして、わきの方から入社した私のところにその仕事が 回って来たわけです。ここで、二つの選択肢があったわけです。一つは当時 はやり始めていた、無歪加工である、放電加工や、電界加工を用いる方法で、 私の少し前までの所属は磁性材料研究室、同じ部門に機械加工研究室もあり、 そこには電界加工機がありました。私がなぜ、この種の新しい加工法に目を 付けず、ドリルのままで穴径を大きくし、大きな穴径でも同じスペックが 得られるようにレンズの設計を変えようと思い立ったのか、今となってはその 理由を思い出すことが出来ませんが、このことが私に、J社にコンピューター シミュレーションを導入させるきっかけになったわけです。

これを始めた最初、J社には有限要素法プログラムを走らせることのできる 大型コンピューターはありませんでした。当時課長であったH(後に社長)が つくばの研究所の友人に頼んで計算をしてもらいました。私は、3~4個のデーター をつくり、郵送でその研究所にデーターを送り、一週間くらいをサイクルにして 結果を受け取っていました。

この時、運よくと言いますか、その時のレンズ形状の収差を決めていたのが、 レンズの根元の磁気飽和であるということがシミュレーションの結果わかり ました。レンズの特性がポールピース先端の形状によって決まっていたと すれば、それを改善するためには、かなりの経験が必要ですぐには結果を出す ことはできなかったと思いますが、まことに偶然と言いますか、その時レンズの 特性を決めていたのは、ポールピースの根元の磁気飽和でした。これは、当時の 私にとっては、私の専門分野と言いますか、電磁石の基本的な事柄でしたので、 直ちに直すことが出来ました。周囲の人々にとって、磁気飽和によってレンズの 性能が制限されていたのか、レンズの形状が、その光学特性を決めていたのか といった区別はつきません。こうして、私はJ社の高分解能レンズの専門家と して、その後発注が続いた超高圧電子顕微鏡の設計をめぐる騒ぎの中で、 コンピューターシミュレーションによるレンズ設計の環境整備に取り組むことが 出来たわけです。つまり、J社では、兄貴分である電子顕微鏡のレンズが電磁石を 使用していたことから、同じ電磁石を用いるNMR装置が製品系列に導入されました。 ところが、NMRの方が先に、より強磁場を性能アップのために使うようになり ました。60MHzのNMRは14500Gaussの磁場を使いますが、性能向上のために100MHz のNMRにしましたところが、23450 Gaussの磁場を必要としました。この高い磁場を 創りだすためには、電磁石材料の磁気飽和に対する配慮が必要でした。しばらく 遅れて、電子顕微鏡の加速電圧も、100kVから200kVに向上しますと、レンズとして 発生しなければならない磁場は、14100Gaussから、23500Gaussに向上しました。 この磁場の向上に対して、電子レンズとして使用する電磁石<の磁場の強さは、 14500 Gaussから23500 Gaussに向上させなければなりませんでした。この時、 既にNMR部門では、同じような磁場向上に対する対策は完成した
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図1. シーメンス社に1986年まであった超電導電子顕微鏡。
図2. シーメンス社の超伝導シールド対物レンズ。

図3. 有限要素法のマトリックス。

図4.ケンブリッジ大学インペリアルカレッジのチャペル。

図5. インペリアルカレッジの宿舎。左端の上の階がニュートンの部屋のあった場所で、 そこがDr. Munroの部屋であった。

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この当時は、超高圧電子顕微鏡が花盛りでした。丁度、 北大と無機材研、アメリカのUCバークレーの3件の受注競争のうち、H社が国内2台、 J社がアメリカの1台を受注しました。この一台が、実質的に最初のコンピューター シミュレーションによるレンズ設計となりました。この準備のため、H係長(後専務) と共に、仙台に既納の1000kVに付属の磁性体観察用ポールピースの磁場分布を測定する 約束があったため、その機会にその他の高分解能用ポールピースの磁場測定も行うため、 磁場測定器を積んだ自動車で仙台まで行ったことを覚えています。これは、1000kV用 高分解能ポールピースの穴径が2mmと他の加速電圧の場合より大きく、1.6mm直径のホール 素子の外形より十分大きいためでした。このホール素子については、NMRで校正してあり、 コンピューターにデーターが入ると、校正値に書き換えられて出力されるようになって いました。

その結果、有限要素法計算において、レンズを分割する数を増やしていくにしたがって、 測定磁場の値は測定値に近づくことがわかりましたが、当時J社で使っていた大型 コンピューターでは、その能力のため、メッシュ数が限られ完全な一致まで達することは できませんでした。しかし、使用していたFe-Co-V合金は加工に敏感で あり、JISリングと呼ばれていた45x33mmのリングを熱処理した後では、磁化曲線が実際の レンズに使用したときより良い条件になっているのではないかとも考えられ、なぜその当時 レンズと同じ程度の寸法のリングでレンズと同じような処理を施してから磁化曲線を測定 するという知恵が働かなかったのかと今になって悔やまれます。実際にやったことは少し インチキで、この時の条件で計算結果が実験値と一致するように磁化曲線を少しだけ悪く するというもので、悪くした磁化曲線で、性能を保証しておけば誰からも文句は言われ ないという考えでした。
実際、高分解能機については、その後多くの人たちが、Cs(球面収差係数)を測定されましたが、 一台として性能不足を指摘されたケースはありませんでした。より良い性能が出た場合は、 たいていの場合喜ばれるばかりでしたので、商品としては、丁度よりもより良いということ の方が良いということであろうと思われました。

これらの結果を持って、ドイツのハンブルクで開かれた国際電子顕微鏡学会に出席する ことになりましたので、当時ミュンヘンの近くのレーゲンスブルクに滞在中の大学時代 の教授の息子の所を訪問することにしました。ここではJ社の電子顕微鏡の古い機種を 使っていましたが、当時サービスが代理店契約であったため、思うに任せず、その都度 色々お世話してあげていたので、教授も喜ばれ、近くのシーメンス社のDr. Dietlichに 紹介しても良いという話になりました。このディートリッヒ女史は超電導電子レンズの 開発に世界でただ一人成功した人なのですが、シーメンス社が電子顕微鏡事業から撤退 したため、この研究もクローズしようとしたところ、ドイツ政府の方から、ディートリッヒ 女史の定年までこの研究を続けてくれと言う要請があり、それが数年後に迫っていたと いうことでした。訪問してみると、電子顕微鏡本体は古い装置でまともな像は写らず、 その当時やはりこの装置を自分のヘリウム温度の電子顕微鏡として導入して使おうかと 考えて別の日に訪問したF教授はあきらめたということでした。同じ装置の見学をして、 別々の結論を出したことも面白かったのですが、私は本体の古さなどはどうでもよく、 ただ、完全反磁性を利用して鋭い磁場分布を作ったというそのアイデアに引かれ、これを 実現したために、世界でただ一人、超伝導電子レンズの開発に成功したことが分かり、 それにほれ込んだわけです。

ディートリッヒ女史は、その後私がこの装置導入を目的として再訪問した ときには、ロンドンの代理店からM氏に同行してもらったのですが、それを 海外旅行に不慣れだったためとは理解せず、世界にお友達がたくさんいると好意的に 解釈してくれ、彼女の超伝導電子レンズの技術引き継ぎは合格したわけです。

いったん決まってみると、社内では私が英語が出来ないことももちろん問題にされた と思いますが、電子顕微鏡の操作についても入社時の訓練は受けておらず、果たして 超伝導電子レンズの技術引き継ぎなどできるのかという点が問題にされたものと 思われます。その後の会社からの提案は、ケンブリッジかオックスフォードに留学 する人を募集しているが、お前はどうだというものでした。もちろん、そのためには、 シーメンスへの滞在は他の人に譲らなければならないというものでした。本来、 ディートリッヒ女史への対応からすれば、これをご破算にして大学留学 を選択するのは信義にもとるわけですが、その魅力と技術の引継ぎという重大任務 を果たして自分が果たせるかと迷っていたことでもあり、その提案を断ることが 出来ませんでした。シーメンスには、4年間の米国駐在経験もあるI(現専務)と 交代しました。会社の計画にまんまとはまったわけですが、私の40才以降はこの選択が 大きく効いてくることになりました。

もう少しだけ、この超伝導電子レンズの話を続けますが、I氏が 持ち帰った、レンズを日本で作ろうとしたとき、熱絶縁に使うためのセラミックスと クライオスタットに使うステンレスが、当時の日本ではドイツ並みのものが手に 入らないなど、現代では信じられないような材料開発のドイツに比べても遅れが 目立ち、日本の材料だけでは開発できないものであることが分かり、結局うやむやに なってしまいました。現在では作れるレベルにあるとは思われますが、 その必要がなくなったということもできます。

即ち、当時は強磁場はなんでも超電導という雰囲気 があり、ここ10年ほどの間に起こったなんでも収差補正と似た現象が起きていました。 現在では、電子顕微鏡のレンズを超電導ににしようなどとは誰も考えておらず、完全 反磁性の応用例もまだ見つかってはいません。そうした事情は色々ありますが、当時は 重要と考えられ、私は代わりにCambridge大学Engineering DepartでDr. Munroが学生時代 を過ごした場所に行くことが出来たわけです。ここでは、すでに大型コンピューターは 使われておらず、ミニコンを用いてグラフ描画まで行われれておりました。

1985年の夏にブダペストでヨーロッパ地区の電子顕微鏡学会が開かれました。この学会に 出席したときに、イギリスのアストン大学のMulvey教授からチェコのDr. Lencova氏を 紹介されました。Mulvey先生は、もともとイギリスの電子顕微鏡メーカーに勤めて おられましたが、そこが撤退するとアストン大学に移り、東ヨーロッパの研究者に対して いろいろな援助を差し伸べておられた先生でした。Mulvey先生からLencova 氏の作成した有限要素法のソフトをいただきました。Lencova氏の作ったままのソフトでは コメントがチェコ語で書かれていたため、アストン大学でこれを英語に翻訳したものを配布 していたからです。このソフトは、Dr. Munroのソフトを変数の記号に至るまで同じに したソフトでしたが、ただ一点進歩していたのは、ICCG法と言うマトリックスを簡易化 した計算手法でした。もともと有限要素法では大きなマトリックスの計算が行われ ますが、対角線方向の狭い範囲に数値が入っているだけで、大部分の領域は0に なっています。ICCG法はこの数値の入っている帯状の領域だけで小さな新しい マトリックスを作り、それを使って、繰り返し計算により、正しい答えに近づけて 行く計算手法です。この方法の導入によって、使用コンピューターの小型化が実現し、 計算時間も短くすることが出来ました。このICCG法はやがてMunroソフトにも 組みこまれ、ハードウェアの進歩もあり、いよいよ有限要素法計算のパソコン時代を 迎えることになります。1985年以降です。

全社に一台しかない大型コンピューターでやっと出来たレンズ計算も 1990年代には、電場・磁場の計算から 収差計算、そのグラフ表示までのすべてをパソコンで行うことが出来るようになりました。

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著者のページ 作成日 2012/09/25 修正 2014/09/14, 2018/02/12, 2019/03/17, 2021/06/13